商店街に生きる

初演は五郎とはじめ、2作目は末吉と花形

あの商店街で生きてきた人たちにはきっと他人には分からない“なにか”があるんだろうと思う。

元来幼なじみってそういうもんだけど。

 

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漠然と、はじめさんと花形くんは似た者同士なんじゃないかと思う。五郎と末吉という特定の相手に対して、という条件付きで。

 

はじめさん本人が自覚している通り、はじめさんは末吉くんと似たり寄ったりなところもある。しかし、ことごとく末吉くんと違うのは、彼はどうも報われない。多分生きるのに周りを気にしすぎてる。でもきっとはじめさんって、自分を犠牲にできる人。その正誤や善悪は置いといて、自分が身を引くことで人が幸せになるならそれでよくない?みたいな。これ全部ひっくるめて越岡さんにあてられた役っぽいなあって感じ、改めて今この配役に納得しているところ。

そこに甘えてるのがごろさん。二人の仲ありきで成立してる関係性。甘やかして甘やかされて。自己犠牲の強いはじめさんのほうが弱く見えるけど、その根底には“五郎が幸せなら”ってのがあるから、まあ納得の上…という表現が合っているのかな。はじめさんがごろさんのこと大好きだもんね、とは思う。それは逆も然りだけど。

 

一方、そううまくできてないのが末吉と花形。

ベースとして「監督と主演として2人で映画を作ることが夢」って同じ方角を向いてはいる。はじめさんの言葉を借りるなら「同じ夢をもってる2人には敵わない」って周りが思うような関係。じゃあなんで、ごろはじみたいに通い合えないのかなって考えたくもなるわけで。

1個は、花形くんが口下手なこと。はじめさんとごろさんは相手が強がってるときに気づける観察眼をもった人間だけど、末吉くんはそうではないよね。花形くんがもっとストレートに感情を表現できる人だったら、末吉くんに余裕がなくても、違った関係値になるんじゃないかと思う。

もう1つは、末吉くんの自己肯定感が低いこと。自己受容できない自分と、色んな人から評価されてる親友。比較したくもなるだろうし、そんなことを末吉くんが思ってる間は完全にはわかりあえないだろうな花末……。

そもそも、あの真っ直ぐ伝えてくれる父ちゃんの元でなぜこんなに自分を認めるのが怖い人間に育つのかが不思議ではある。むしろあの父ちゃんに育てられたからかもしれないけど。

 

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あの商店街において他の誰かが取って代わることのできない幼なじみという肩書きは、共に時を歩んできた相方で、時にライバルみたいな親友のことを指すのだと思う。

とここまでが東京公演を終えての考察。

会えない時間が

「会えない時間が愛を育てる」

一時期の辰巳くんの口癖。最近は公演がストップすることも少なくなったからあんまり聞かなくなったな。

 

気にしいで心配性な彼が発する言葉はいつも、自分に言い聞かせるみたいだなと思っている。こちらにしっかり届いているから独り言ではないんだけど、いま自分が欲しいんじゃないの?ってワードが並んでる気がする。そっくりそのまま返したくなる。

なんだかんだその気にしいさんに救われまくっているわけだが。

 

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4人舞台が初めて長期間休演になった。

個人舞台では悔しくも休演や公演中止を幾度か経験している。しかし、やはり慣れない感覚だなと思う。いやこんなの慣れちゃいけないんだけど。

去年の夏も2公演中止にはなったが、どちらも翌日には再開した。演者のプロ根性を感じた瞬間だった。

 

今年は急な5日間の休演、なんとなく満喫してそう休めてそうだなあって人もいれば、何度も謝罪してる方もいてどうしようもなく虚しくなった。私は無力だなと情けなくなった。誰も悪くないからこそ、なんだかやるせない気持ちになる。いっそ誰かを責め立てられたら楽になるのかって、そういう話ではないけれど。

 

 

生のエンタメを上演し続ける難しさってなんだろうね、万人受けすること?協賛してくれる人がいるかどうか?客席が全部埋まるかも評判も気になるところではあるよね。

でも私は、演者が怪我も病気もせずに走りきることだと思う。その瞬間、目の前でだけ繰り広げられる世界に必要不可欠なのは、他でもなく演者のみなさんなんだよな。

 

自らの身をもって世界観と熱量を浴びる、劇場という空間がだいすきだ。そこに命懸けで立ち続けてくれている人達も、演者の裏で作品を愛して動いてくれているみなさんも。ついでに、その全てを好きでいれている自分も悪くないなと思う。

 

 

会えない時間は、様々なものへの感謝や思いやり。当たり前に持ち合わせているはずの純粋な気持ちをさらに育ててくれる。もちろん、ふぉ〜ゆ〜へのまっすぐな愛も。

 

クリエ港からの再出航。

もう荒波で途中停泊することなく、名古屋までの長い旅路をみんなが楽しめますように。

 

現実はビター

カード次々めくるように夢追いかけるにはもう遅い

 

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泣くことが少なくなった。芝居見て感動してとか、ライブで感情が昂ってとかはあるけど。

なんていうかその、純粋に悲しくてとか思い通りにいかないモヤモヤでとか、そういう自分の気持ちと抗った結果の涙って流さなくなった。

いや、“泣けなくなった”が正しいのかも。

 

 

大人になったんだと思う。私が、そして周りが。

素直に夢を打ち明けることも、心から人を信頼することもなくなった。自己防衛のために諦めることを知ったからだった。

 

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この夏、再びSHOWBOYの世界に浸っている。もう何度も見た作品なのに、少しのブラッシュアップに信じられないほど心動かされている。

 

合言葉は【ヤルシカナイネ】

 

再々演である今年、全員が諦めきれない夢を見続けていることがより鮮明に描かれている。

生活のために諦めた憧れも、手放さなきゃならないその輝きも、でもやっぱりどこか忘れられなくてどこかで追い求め続けているその理想。

 

 

「人生にやり直しってないんだよね?じゃあチャンスってどうやったら手に入れられる?」

人生は選択の連続だ。2択を外してもちょっと回り道すれば、選ばなかったルートにたどり着くかも。

人生は挑戦の連続だ。叶わないと過去に置いてきた願望にも、本気で向き合う瞬間がくるかも… なんて。

 

 

「続けてるのがもったいないって思っちゃったの。このまま続けて何も無かったらって」

これまで挑み続けてきたどの事柄に対しても、費やした時間と熱量は本物だった。だからこそ、それを無駄だと思いたくない。無駄だったと思うことなく生きたいのだ。正々堂々生きるって、多分そういうこと。

 

嘘偽りなく生きれたら、好きも嫌いも飲み込んで、現実の中で少しだけ理想に手を伸ばせたら。

 

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あいにく私にも、ショータイムのようなキラキラした人生は与えられていないらしい。

 

きっとこれから先、マフィアのように望んでいない仕事をこなすことになったり、見習いのように努力が身を結ばなくて悩むことになったりするのだろう。裏方のようにどうしても諦めきれない夢を見続けることも、ないとは言いきれない。そしてギャンブラーのように、人生を変えたいと嘆くような日がくるのかも。

 

 

ノーバディーズパーフェクトの世界、それでも報われるのはたったひと握り。でももし何もかもをはじめからやり直せても、多分同じ道を選ぶ。

現実の苦さも悪くはない。ここで闘う自分を大事に包み込んであげたら、その先にある憧れに手が届く気がして。

チャンスは自分で掴むもので、そのための選択肢はあちこちに転がっている。気がついていないだけで案外すぐそばにある。

 

 

 

 

40手前のオトナの物語を上手に噛み砕いて解釈できるくらいに大人になった、考え方も感じ方も価値観も。

安定を捨てて全てを憧れに捧ぐことなんてできないと知っている。だからこそ、捨てきれない夢を抱いたままもがくその美しさが映えて見える。

 

 

愛を纏った熱視線も、不器用に想いを吐露してこぼした涙も、衣装に袖を通した後のキラキラした瞳も、水面に映る姿に湧き上がる興奮も、いずれ消えゆく淡い記憶。だけど。

 

 

【そんなに好きなら諦めんなよ、ばか】

 

 

いつか思い出すなら、熱く爽やかでどこか涙混じりの、この夏がいい。

 

 

 

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